【植村 環(1890-1982)】
植村環は、日本初代プロテスタントの指導者植村正久・季野夫妻の三女で、日本プロテスタントの二人目の婦人牧師となりましたが、そこに至る道は決して平坦ではありませんでした。植村家の長女澄江は、佐波亘牧師と結婚し、教会と伝道者を支えましたが、次女の薫は五歳で夭折、四歳下の四女恵子は津田塾を出たのち、父の教える東京神学社(東京神学大学の前身)で学び、アメリカの神学校に留学しましたが、腎臓結核のために客死しています。
環は「男まさり」の性格だったそうで、高等部まで女子学院で学んだ後、20歳で親の勧めで芝浦製作所勤務の技術者川戸洲三と婚約、しかし志固くアメリカの名門女子大ウェルズリー大学に学び、帰国後結婚、一女と一男を儲けています。しかし、夫は病を得て慌ただしく死去、遺児の男子も1924年関東大震災直後に、幼くして急逝。父正久も、震災後の過労の故か、その翌年に心臓病で急死しています。
母季野は、夫の死に際し、一人の伝道者が失われたのだから、一人の伝道者が立たなければならないと、環に献身を促したといいます。35歳の環は、7歳の娘を母に託し、スコットランド・エディンバラの神学校で学び卒業、牧師となりました。環牧師は柏木の家庭集会を基盤に、教会形成に取り組み、伝道開始六年で独立した柏木教会となりました。その時の礼拝出席は平均93名といいますから、日本が戦争に進む暗い時代に、驚異的な教会成長でした。
戦後、環牧師は、長老教会婦人部の招きで渡米、帰国に際して、皇室に贈る聖書を託されます。その聖書を届けるために宮中に参内したところ、それが機縁となって、宮中で環牧師を囲んで聖書の会がもたれるようになりました。最初は天皇家の内親王(すなわち、お嬢様方)のための聖書の学びでしたが、皇后も参加することになりました。クエイカーのヴァイニング夫人が皇太子の家庭教師であった時期に、環牧師は聖書を教え、讃美歌を歌っていたのです。ただし、この会は占領の終了とともに、終止符が打たれました。
担当 梅津 順一
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