【南原繁(1889-1974)】
南原繁は戦後、東大総長に就任し、戦後改革期に、キリスト教信仰にもとづき、「新日本の文化の創造」を唱え、さまざまな方面に新鮮な風を送りました。南原は河上丈太郎の一歳後、河上と同じく、旧制一高から東京大学法学部に進学し、河上と同じく、新渡戸稲造校長の人格教育の影響を受けています。河上は父親がクリスチャンでしたが、南原は伝統的な精神風土で育ち、新渡戸を通してキリスト教を知るようになり、内村鑑三の門下生になっています。
南原は香川県の出身で、生家は讃岐三盆で知られる砂糖製造業に従事し、代々名主も務める家柄でしたが、南原が生まれた頃は、家業は低迷していました。地元の小学校で学び、高学年の時には教員養成の講習も受け、12歳で小学校準教員資格も得ています。ただし、南原は旧制高松中学大川分校に入学し、高等教育への道を進みました。この中学には、毎日往復20キロを徒歩で通ったそうです。
南原はある篤志家の財政的支えを得て一高に入学、田舎の世界から新しい世界に入り、カルチャーショックを受けました。従来の生活信条が崩れ、「内心の不安と動揺」に見舞われたのでした。読書と内省の日々が始まり、宗教的世界に向かうことになります。大学入学後は毎週、内村鑑三の聖書講義に通うようになり、学問においても、政治哲学への関心を深めていきます。
卒業後南原は、内務省に入り、自ら希望して、富山県の郡長に就任しています。政治哲学をやろうとする人間は、むしろ政治の現場を知らなければならないと考えたからです。郡長として、治水事業や農業公民学校の設立に実績を残し、本省では労働組合法案を手がけた後に、大学に戻ることになります。三年の海外留学の後、教壇に立った南原に付けられたあだ名は「洞窟の哲人」。戦争への道を進む日本に、学究的立場から批判し、再建の方向を示唆するものでした。日本の敗戦は、南原を学究的立場から広い指導者的立場へと引き出し、教育改革、憲法制定、対外政策に発言する機会を与えたのです。
担当 梅津 順一
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- キリスト教入門
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