【内村鑑三(1861-1930)】
内村鑑三は札幌農学校の二期生です。札幌農学校は北海道開拓のための人材養成のための学校で、学生は給費生、すなわち学ぶことで、給与を受けることができました。(現在では、防衛大学校が給費制です。)卒業後、北海道開拓使(道庁)に数年勤務の義務があり、内村はその後、農商務省で働いています。当時の内村の仕事の一つは、水産資源の調査で、内村は日本最初の魚類目録を作成しています。
したがって、内村は当時のエリートでした。そのまま役人生活を続けていたら、政府高官になっていたでしょうし、水産学者としても名を成していたことでしょう。ところが内村は、役人生活にあきたらず仕事を辞して、アメリカ留学に旅立ちます。内村は新島襄の紹介で、新島の母校アマスト大学に入学し、理学士となって卒業、そののちハートフォード神学校に入学しますが、健康上の理由で退学。帰国することになりました。
日本に帰った内村は、一時、北越学館という当時新潟にあったキリスト教学校で教えますが、宣教師と対立して離職、その後、東京大学への予備門、第一高等中学で教えますが、そこで「内村鑑三不敬事件」に遭遇、辞職を余儀なくされました。大日本帝国憲法とほぼ同時に、教育勅語が発布されますが、内村は教育勅語奉読式で、不敬を働いたと喧伝されたのです。
内村は、実際は天皇の著名入りの文書に敬礼を行ったが、神格化するような最敬礼はためらった。その一瞬の躊躇が、大問題となったのでした。内村は、この時「はめられた」という説があります。米国帰りで、独特の指導法で英語を教える内村は生徒たちに人気があった。内村に反発していたのは、東洋倫理派とともに、同僚の英語教師がいたとも言われます。もしも、内村がこの学校で教職を続けていたら、その後東京大学あるいは文部行政で、重責を担う立場になっていたかも知れません。
教壇を追われた内村は、キリスト教的文筆家、ジャーナリストとして生活を立てていくことになります。その後、主題を聖書に求め『聖書之研究』を刊行し、独立伝道者の道を歩むことになりました。
担当 梅津 順一
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