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日本プロテスタント人物誌 No.8 本多庸一

2022年5月22日

【本多庸一(1848-1912)】 


 開港地横浜で英語を学んだ若者の中からクリスチャンのグループ、横浜バンドがうまれたことはすでに触れました。横浜バンドを代表するのは植村正久ですが、今日取り上げる本多庸一も横浜で英語とともにキリスト教に接した人物です。しかし、本多は植村よりも十年ほど年長、明治維新の時点で、本多はすでに二十歳、成人に達していました。本多は弘前藩士として、庄内藩に加勢して、官軍と戦った経験もありました。

 維新後、本多は弘前藩主から、横浜で英語を学ぶことを求められ、廃藩置県の後は、私費で英学を続けました。英語の先生は宣教師、または宣教師の奥さんですから、自然にキリスト教への関心が芽生えます。とくに本多はバラ宣教師が、涙を流して日本国のために祈る姿に感銘を受けたといわれます。実は、バラ先生、当時はまだ日本語が十分ではなかった。率直に言って、意味がよく分からなかった。しかし、涙をもって祈る姿に感銘を受けたのでした。当時、世界に開かれた日本が、どのような運命をたどるか、不確かでした。日本もいずれ欧米のどこかの国の植民地にされてしまうのではないか。宣教師の祈りは、本多青年の心に訴えるものがあったのです。

 横浜バンドの人々とは違って、本多はメソジスト派の宣教師イングを伴って弘前に帰ります。イングとともに、教会を建て、またさまざまな文明開化の諸事業に従事しました。イングは西洋の農業の導入にも力があり、青森にリンゴを導入したのはイング宣教師だといわれています。弘前藩の藩校をキリスト教学校東奥義塾に模様替えしました。本多は人望があったので、本多の事業を旧弘前藩の人々も応援したのです。本多はまた自由民権運動の指導者となり、県会議長にも就任しています。本多は地域社会で、教会のリーダーだけでなく、社会形成のリーダーだったのです。国会開設の際には、衆議院議員選挙に立候補することを求められましたが、教会指導者の道を選びました。本多は後に、青山学院院長となり、また日本メソジスト教会の初代監督となっています。

担当 梅津 順一

カテゴリー:
キリスト教入門
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